古代飛鳥

小松島市は、古代飛鳥のみやこであった。

飛鳥の地

小松島市大林町おおばやしちょうは「あすか」と呼ばれていたとの伝承が残っている。

徳島藩の地誌である「阿波志」によると、「飛鳥祠 大林村に在り又日吉祠天満祠蛭子祠牛頭祠八幡祠あり…」とみえ、『阿波志』の成立した文化十二年(一八一五)の頃には、村内で最も知られ、尊崇されていた神社ということができる。つまり、大林町方面は、かつて飛鳥の地であったのだ。

さて、記紀に表れる飛鳥京は、天智・天武天皇の父君にあたる舒明じょめい天皇(在位六二九〜六四一)が、舒明二年(六三〇)飛鳥岡本宮に遷宮して以来、持統八年(六九四)まで、その間三度約十二年間飛鳥を離れるものの、五十年以上にわたって飛鳥の地に皇居が営まれた。通説では、これら飛鳥諸宮の地は、奈良県高市郡明日香村であったとされているが、これまでの発掘調査で、皇居の遺構としての条件を備えているのは、明日香村岡の「伝飛鳥板蓋宮いたぶきのみや跡」以外に該当するものがないという。これでは、飛鳥の六宮(岡本・板蓋・川原・後岡本・嶋・浄御原)は収まりようがない。また奈良県明日香村の地は三方山に囲まれ、かつ東西約十キロ、南北約二十五キロの奈良盆地の中軸線を外れた、狭小な東南隅の、南北一.五キロ、東西〇.八キロの押し詰められた地域でしかない。このような狭あいの地に、はたして皇居が占ばれたというのだろうか。

奈良県飛鳥の地は、帰化人らにより開拓された学問所や仮御所、迎賓施設、庭園、工房、邸宅などが営まれた跡ではなかったのか。一例をあげれば、書紀の記述や古代歌謡から、飛鳥浄御原宮は岡本宮の南に営んだといい、また、水鳥の集まる水沼みぬまを宮にしたというが、それらの宮をすべて「伝飛鳥板蓋宮跡」に当てるというのでは、まったく飛鳥宮の証拠にはならないであろう。

奈良の飛鳥と故郷の飛鳥

「皇都阿波説」によれば、舒明天皇から持統天皇までの飛鳥のみやこは、徳島県小松島市に営まれたという(別表及び地図参照)。うち古代の歌謡から浮かび上がる飛鳥京・小松島市の、いにしえたたずまいを偲んでいただきたい。
飛鳥(明日香)は、古い飛鳥(古京)と、奈良県の飛鳥の、二箇所の飛鳥があった。万葉集巻六(九九二)が、そのことを示している。

大伴坂上郎女おおとものさかのうえのいらつめ、元興寺の里を詠む歌一首
故郷ふるさとの 飛鳥あすかはあれど あをによし 平城なら明日香あすかを 見らくしよしも
(現代訳)古い都の明日香はそれなりによいが、奈良の明日香を見るのは実によいことよ。
• 桜井満訳注『万葉集』(旺文社)による。

大伴坂上郎女が、平城遷都(七一〇)の後、奈良県明日香の地で詠んだ歌であるが、当時奈良県に飛鳥が二か所あったわけではない。この歌は、奈良県飛鳥以前に、元の飛鳥(故郷の飛鳥)があったことを表している。では「故郷ふるさとの飛鳥」とはどこなのか。それが阿波の飛鳥で、平城遷都以前に、飛鳥の諸宮が営まれた小松島市である。(N4)(N6)

香具山—舒明天皇の国見歌

飛鳥の岡本宮で治世された舒明天皇の国見の歌(万巻一ノ二)は、さらにそのことを鮮明にする。

天皇、香具山に登りて望国くにみしたまふ時の御製歌おほみうた

山常やまとには 群山むらやまあれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見くにみをすれば 国原は けぶり立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 やまとの国は
(天皇)
香具山に登って国見をすると、人々の住む広大な平野には、かまどの煙があちこちから立ちのぼっている。また広々として海原には、かもめが盛んに飛びかっている。ああ、ほんとうにすぐれた国だ。やまとの国は。

といった訳になる。この歌から、飛鳥岡本宮は、奈良盆地には存在しなかったことになる。奈良盆地から、かもめが飛び交う海原の景色など見える筈がないからである。そのため通説は、海原を水面と訳したり、かもめには内陸まで来る種類があるとか、盆地湖があったとか、仮空の歌だったとか、苦しい解釈で奈良盆地に結びつけているが、いずれも誤りである。“やまと”とは、海に面した国であったのだ。舒明天皇が登った香具山とは、徳島市と小松島市との境をなす香具山である。現在は小松島市側の山塊は日峯ひのみね芝山しばやま、徳島市側は籠山かごやま外籠山そとかごやまと呼ばれている。それは東が海(紀伊水道)に面し、日の出の山としての信仰から、後世、小松島市側の山頂に日峯神社が創建され、その名も日峯山ひみねさんと呼ばれるようになったからで、それまでは「かごやま」または「かぐやま」と呼ばれていたとみられる。江戸時代の文書(小濱家文書ほか)にも「籠野山かごのやま」や「籠山かごやま」の名が見える。古来飛鳥の香具山は「カグ山」とも「カゴ山」とも訓まれていたことが、仙覚の『万葉集注釈』(鎌倉時代)から確かめられるので、その山名は一致する。

香具山は、神代の天石屋戸あまのいわやど神事に、天の香具山から賢木さかきや占いに用いる真男鹿まおしか(の骨)を採取したり、天宇受売あまのうずめが天の香具山の小竹葉ささばを取って神踊りをするなど、天孫(皇家)にとって、神事には欠かせない最も神聖な山とされてきたのである。そのため、遷都が行われれば、新都の地で新たな香具山がえらばれることになり、それが新都の象徴となり、天皇の御霊に代わる神聖な山となってきた。奈良県の香具山も、平城遷都によって、新たな香具山として占ばれたもので、遷都以前の、記紀の時代(〜六九六)の香具山は、阿波の香具山(日峯籠山山塊)であった。

武埴安王の乱の舞台


第十代崇神天皇の時代、香具山の埴土はににかかわる事件が起こったのも、阿波の香具山であった。叔父おじ武埴安王たけはにやすおうが皇位をねらって反乱を起こした物語で、武埴安王の妻吾田媛が、こっそり香具山に登り、香具山のはにを取って領巾ひれに包み、「これは倭の国の物実ものしろ(倭・天皇の霊に代わるもの)」として崇神天皇を呪詛じゅそし、夫を佐けようとした。このとき、天皇の御魂にも相当する香具山のはにを守っていたのが、第八代孝元天皇の妃で武埴安王の母にあたる埴安媛はにやすひめ命であった。埴安媛命は崇神天皇から、香具山の埴を守るという大切な役割を託されていたにもかかわらず、我が子可愛さのあまり心が乱れ、妻吾田媛の香具山侵入と、埴による呪詛を許してしまう。畢竟ひっきょう、この反乱は、崇神天皇の命をうけた大彦軍が、武埴安王軍をせんめつし事件は納まるのである。

その埴安媛命を祀るのが、日峯籠山山塊の南麓、小松島市中田町ちゅうでんちょうに鎮座する建島女祖命たつしまめおやのみこと神社(式内社)である。この神社の祭神については、滋賀県高嶋郡の式内波爾布はにふ神社の古記録に、天平十三年(七四一)、阿波国勝浦郡建島女祖命神社の祭神波爾山比売はにやまひめ命を勧請したとあることから、埴土はにの神であることが明らかである。ただ、神話の神生みの段に、埴土の神として生み出された埴山比売はにやまひめ埴安比売はにやすひめといった象徴神ではない。神社名に「女祖めおや」という天皇の母などに用いられる最高度の尊称と、実在神を表す「命」の名義が重ねられていることから、建(戦いに関与した)島(古くは島であった香具山の埴を守る)女祖(高貴な妃の)命(実在した)神の社となり、記紀で該当するのは、唯一孝元天皇の妃埴安媛はにやすひめ命となる。

この神社が鎮座するということは、小松島市の日峯籠山山塊が、記紀の時代の香具山であったということになるが、付近の地名に「池ノ内」がある。これも香具山の麓にあった「埴安の池」の遺称地名と見られる。なお戦士した武埴安王の葬場は、阿南市羽ノ浦はのうら宮倉みやぐら能路寺山のうろじやま古墳群中で、その古墳をご神体に、和耶わや神社(式内社)として祭祀されていた。「わや」とは、阿波弁で「台無しになる」「元も子もなくなる」の意で、遺族や民人らが武埴安王を哀れんで祭祀するうち「和耶わや」が神社名になったものと思われる。また、武埴安王の戦闘の舞台は、阿南市那賀川の旧河道の羽の浦からわたしのあった楠根くすねまでで、記紀にみえる訶羅かわら・山代・和泉の地名は、すべて阿南市那賀川筋の旧郷名である「幡羅はら」「山代」「和泉」に一致する。

岡本宮・後岡本宮

舒明天皇の岡本宮推定地は、日峯籠山山塊の南麓、小松島市中田町千代ヶ原ちよがはら、現在の桂林寺(N9)(N12-2)から小松島西高校のあたり。斉明天皇ののち岡本宮跡は、その西隣の八幡神社から千代の松原あたりに推定する。両宮推定地から南方の県前あがたまえのあたりまでの約八〇〇メートル、幅約四百メートルの地域は、沖積面の段丘で、小松島市の平野部では最も高く安定した地層で、日本書紀の、岡本宮は飛鳥のおかほとりに営まれたとする記事にも整合する。

舒明天皇の国見の歌は、岡本宮のすぐ裏(北)の香具山中腹からよんだものと推定する。当時の小松島市の海岸線は、現在より一〜一.五キロメートル内陸にあったと推定されるが、かまどの煙が立ちのぼる国原と、かもめ飛び交う海原の景色が拡がる「うまし国」であったろう。

飛鳥浄御原宮

天武天皇は壬申乱(六七二)の勝利後、その年に岡本宮の南に浄御原宮を造営し遷られる。その地は、小松島市大林町本村に推定する。昔、飛鳥と呼ばれた地で、南方の宮免には飛鳥神社が鎮座していた。また西は四国霊場十九番札所立江寺のあった田中山を望み、北は船泊のあった赤石に近い。岡本宮推定地からはほぼ南方向にあたる。

浄御原造営のときの歌が二首伝えられている(万十九—四二六〇・四二六一)が、その地理的条件は大林町本村に整合する。

壬申の年の乱の平定しぬる以後のちの歌二首

大王おおきみは 神にしませば 赤駒の 腹這はらば田居たいを都となしつ
(現代訳)天皇は神でいらっしゃるから、赤駒が腹這っている田を立派な都になさったことだ。
(桜井満氏訳、同左)

大王は 神にしませば 水鳥の すだ水沼みぬまを 都となしつ
天武天皇は、岡本宮の南方、低湿地の人跡のない更地を都になさったという。ところが通説では、奈良県明日香の建物遺構が重層する「伝飛鳥板蓋宮跡」に比定する。そこは更地でもなく、岡本宮の南でもない。全く合わないのだ。

(嶋宮)

天武天皇は壬申乱に勝利したあと嶋宮に入ったとある。その後この宮は、皇子である草壁皇子に伝領されることになる。天武天皇の没後、天武の第二皇子である大津皇子事件が発生し、大津は自害させられる。その後、皇太子であり、天武の第一皇子である草壁皇子(母は持統天皇)が帝位に即くものと誰もが信じて疑わなかったが、なぜか空位の期間が三年近く続いたあと、草壁は急逝する。その後も天武の皇子の不審死は次々と起こるが、これらは藤原不比等の陰謀とみられる。草壁皇子の急逝には宮廷全体が衝撃をうけ、皇子の死を惜しむ舎人らの多くの歌が万葉集に納められている。

通説の嶋宮は、奈良県明日香村島ノ庄の石舞台古墳の東方向であるという。もと蘇我馬子が造った池の中の嶋から名付けられ、これを再利用したのが嶋宮とされる。しかし舎人らの作った歌(万葉集所収)からは、嶋宮が内陸にあったとはとうてい考えられない。

皇子尊みこのみことの宮の舎人等のかなしびいたみて作る歌二十三首

高光る が日の皇子みこの 万代よろづよに 国知らさまし 島の宮はも(一七一)

み立たしの 島の荒磯ありそを 今見れば ひざりし草 生ひにけるかも(一八一)

水伝みなつたう いそ浦廻うらみの 石つつじ もく咲く道を またも見むかも(一八五)

朝日照る 佐田さだ岡辺をかへに つつ が泣くなみだ やむ時もなし(一七七)

たちばなの 島の宮には  かねかも 佐田さだ岡辺をかへに 侍宿とのゐしに行く(一七九)

貞の浦に 寄する白波あひだなく 思ふをいかに 妹に會ひ難き(三〇二九)

沖つ波 邊波へなみ來寄きよる さだの浦の このさだ過ぎて のち戀ひむかも(三一六〇)

通説諸氏は、巻二—一八一の「島の荒磯(嶋之荒磯)」を、「庭の池の荒磯」とし、また一八五の「磯の浦廻(磯乃浦廻)」を、「池の磯辺」と解釈しているが、甚だしい曲解(誤り)である。右の歌から嶋宮は、海に近接し、波が打寄せる荒磯や、泊(貞の浦)があり海(沖つ波)が望見できる宮であったといえる。通説の嶋宮は、奈良盆地の最奥部の吉野山の山間部に比定されているが、これは予断をもって奈良盆地と決め付けた。文献無視の説でしかない。

さて、皇都阿波説による嶋宮の推定地は、小松島市坂野町さかのちょう島ノ内の、嶋ノ宮神社一帯とする。古代(約千二百年前)地形から推定すると、海に近接し、泊も設けられ、沖つ波も望見することができ、浄御原宮推定地とも近接した水運にも恵まれた宮であったといえる。また右の歌には、「佐田さだの岡」や「橘の島の宮」の句が見えるが、嶋ノ宮神社の南方向に近接する小字地名に「さだ(三田)」や「橘」が見える。

この小冊子の主題である「小松島市は豊葦原中つ国の首都だった」及び「小松島市は古代飛鳥の京であった」については、NPO法人阿波国古代研究所(理事長笹田孝至)の協力を得て作成しました。内容等の問い合せについては次へ
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